昭和54年05月09日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
信心の手篤いのが真の信者じゃと言う。確かに教師も信者も人間ですから、やはりそういうところが出て参ります。不同の扱いをしておるとは思わんでも、思うとらんけれども、やはりいつのまにか、不同の扱いをしておるような事があったり、不同の扱いを受けておる場合があるのです。ですから、まぁ言うならば信者としては不同の扱いを、良い意味においてうけられる位な信心をせないけんと言う事ですね。まぁ沢山のお供えをする、俄然大事に取り扱われるようになる。
だから神様の前に要領が良いとか悪いとか言うけれども、やっぱり要領の良い者には勝たん。要領が良ければやっぱり俄然良いお取り扱いを受ける事になる。だから信者としてはです、私は良い取り扱いが受けられる様な、信心をさせて貰わねば嘘だと思うですね。先生も人間ですから、只そこに先生としてはね、その言うなら段々本当なものを見る目と言うか、先生自身が信心を高めてまいりません事には、なかなか出来る事ではありません。だから結局その見る目がないと、要領の良い人に眼がつく。
どんどん御用が出来たりお供えものが出来たりする人達に、これはもう当然その眼がそこへ行くわけ。そしてはぁこんなこの人がこんな調子で、信心をいよいよ進めてくれたらと思いますから、やっぱし自然そこに目をかけることになるのです。そして段々肉眼を置いて心眼を、先生自身が開かせて頂くようになるとです、あの人ばっかりはどこに居るやらわからん、と言った様な人でも却って手篤い信心をして、かげながら御用の出来ておる。と言う様な又真の信心を求めておると人達もありますけども。
中々その辺の所は難しいもんだと言う事です。だから私は先ずはですね、これは信者としては、いうならば先生の目に止まる、取次者の目にとまる様な信心を、先ず頂く事が本当だと私は思うですね。特別な取り扱いでも受ける様な信心をいっちょ頂きたいですね。ならこれは教師としては、だからそこんところがですね、肉眼を置いて心眼を開いてです。言うならば、天地金乃神様のお心になって。信者に対されるお取り次ぎが出来るような。先生にならなければならない事は勿論です。
私は今日はだからそこんところはまぁ置いてです、言うなら信心の手篤いのが、真の信者じゃと言われる。信心が手篤いというても、お参りしよります拝みよります、と言うただけではなくてです、言うなら空念仏的な信心じゃなくて実のある信心、真実の信心本当の信心、本当の信者そこには言うなら、間違いのない真の信心を目指させてもろうて。そこに熱意をかけていく信心こそ、真の信者と言う事になるのじゃないでしょうか。それが本当の信心が、手篤いと言う事に、なるのじゃないでしょうか。
昨日夜の御祈念の後に、伊万里から竹内和教さんがお導きをして参りましたご信者がございました。伊万里市の青年団のまぁ団長ですかを、なさっておられて、竹内先生の選挙の時にもたいへん、もうそれこそ大変にそのお役に立った方らしいです。その方の、ま、個人のいろんなお願い事やらもあってお導きを受けて、昨日参って見えたわけなんですけれどもお取次ぎさせて頂いたら、そのてれてというのではないけれども、折れず曲がらず、といういうなら根性を持った方の様ですね、神様から頂くと。
それも切れ手、というのがありますのね。切れる。ところがなかなか切れん。ところがあんまりスカスカ切れるのは、折れやすいです。そりゃ素晴らしいいわゆる目立つ人がありますね。切れ手とこうもうします。ところが切れ手というのでなくてま精進、努力家と言いましょうか。曲がらず折れずという方だから、そういう性格がです、もう言うならば貫く精神というものが素晴らしい。なら竹内通教という人に帰依しだした。この人をどうでも市長にと。
そのためにま多くの若い層の人達にもう熱心に竹内先生のその人柄と言うか政治力というか、そう言うものをもう熱心に説いて回られた。と言うわけです。それをお取次ぎさして貰いよりましたら、「竹内親子、竹内通教先生、正教先生、和教さん」と頂くんです。通教と言うのは、道教える、と書いてある。正教と言うのは、正しく教える、と書いてある。和教というのは所謂、和賀心の和ですね。和を教える、と書いてある。ですからこれは本当に正しい。
しかも和の道をこの人に取次がせて頂いて、こういう曲がらず、折れず、と言う様な性根を持った人にこれを正しく伝えよ、と言う神様の御神意であったと思ったです。だから折角曲がらず折れず、と言う様なその性根を本当の事と正しいこと、これは絶対なものというものをです。この人がわかって下さってそのところに、焦点を置いて曲がらず、折れず、進まれたら素晴らしい人格と素晴らしいお徳を受けられるだろうと、思うてお話をしたことでしたけども。
私が今合楽の信心の素晴らしいことをいかにお話を致しましても誰だって自分の事を悪う言う者はおらん。結局我田引水的なことにしか受け取られないと、私も言うても損になるし、損になると言うか言うてもわからんのだから、こりゃ本当にあなた自身が合楽の信心を、こう少し勉強して下さることですね。と言うて昨日の久留米の御大祭の後のお話をさせて頂いたことでした。
昨日青年会でございましたから安武先生がここでお届けされるのに、私は耳が遠いからよくは分からなかったけれども何かの問題の時に金光教の真価と、真価と言う事は真の値打ちと言う意味なんですね。だからそれをなら「今晩あたりの青年会では合楽の真価と言うところに焦点を置いて研修なさったらどうでしょうかね」と。「今日は久留米の御大祭、頂かれたんですか」と言ったら、「はぁあのう御説教だけ頂きました」と。んなら今日の久留米で私がお話をさせて頂いた。
あれこそが金光教の真価であり、その金光大神の信心の真価をです、合楽によっていよいよ真価たらしめれる。と言うお話でしたですね。と所謂、和道十全、と言う事を言うなら簡単にもし説明するなら、こう言う事になるんですよ。と言うのが昨日の久留米のお話でしたですよね。だからその、金光大神の教えと言うものが深くて広くて、と言うものだけではなくて和道十全の足ろうた完璧な教えだ、と言うこと。人間が幸せになる幸福になっていくと言う、言う時点においてです。
ですから、昨日のあの話を皆さんが聞いて下さって、あれをもし人に伝えて下さるならば、はぁなるほど、金光教と言うのはそんなに素晴らしい信心かと。また頂いとる者自身も、あらためて合楽理念による説明を受けて 初めて金光教の信心が、自分達が頂いておる教祖金光大神と言うお方が、そんなに素晴らしいお方であったんだ。そう言う素晴らしい教えなんだ、そういう素晴らしい言うならばお教会に、御縁を頂いておるんだと言う事がわかる。
そして初めて言うならば、合楽理念の真価とでも申しましょうかね、金光大神の信心の真価がそこに正しく問われる事になるのです。私は昨日こちらへ帰らせて頂いて、あのう御礼を申させて頂いて一番口頂いた事はテレビでですね、何かマンガに書いた様なこう偉そうなおっちゃんが出て来てね、こうメガネかけてそして何とか、まるきばんと言う宣伝をしているんです。で最後に「こうも違うのですよ」と言うせりふがあるんです。皆さん御承知の自動車の何かの、何とかまるきばんとこういうのですね。
だから私がそれこそ耳が遠いから、はっきりは聞こえんけども、そのまるきばんというのが、丸い木の版何何版とこう申しましょう。だから結局んなら、私がきのう久留米でお話をした、いわゆるまるきばんです。いわゆる和道です。丸はまる和道。木は心。和賀心のもう言うならば決定版的なお話だと言う事ですね。和道十全の説明を頂いたと言う事は。もう金光教の信心の決定版なんです。
そして言うならば宗教以前の宗教、前代未聞の事が今合楽で説かれておると、例えばね私がどんなに一生懸命に、これを説かせて頂いても私に帰依し合楽に帰依しておる人達は、そうどころじゃないというふうに思いましょうけれども、これをなら沢山の人に聞いてもらうと言う事になると、合楽は我田引水んなもう合楽だけがほんなもんのごと言うと,言う風にしか丁度テレビでやっておる、もこんなにも違うのですよと。他の宗教とこんなにも違うのですよと、言っておるのと同じだと、言う事なんです。
皆さんテレビば気をつけとって下さい。そんなコマ-シャルがあるのです。他の商品と家の商品とはこんなにも違うのですよ。と言っておるわけ。それが何とかまるきばんとこう言うのです。私が和道十全をどんなに口を酢ゆうして、声を大にして説いてもです、それを帰依しない人が聞いたぶんではです、結局自分よがりであり、我田引水のお話としか受けとらない。けれども合楽の信奉者の一人一人がです、言うなら合楽理念によるところの和道十全の道を、道足らしめるおかげを皆さんが頂かれて。
完壁な教えである証拠に、こういうおかげが受けられるんだ、と言うおかげを皆さんが一人一人受けられて、皆さんがそれを伝えられる。なら昨日久留米で頂いた様なお話をね、とうとうと人にも語られる、また自分もこの様な、おかげを受けておるという事実を踏んまえて、言うなら、和道十全の道を皆さんが説かれるならば、これは必ず人に伝わっていくだろうと、私が説いたぶんでは、ちょうどテレビのコマ-シャルのようもんだと言う事を頂いてですね。
なら昨日伊万里から参って来た青年団のその団長といわれる方にです。私がどんなに合楽の信心が素晴らしいと。あなたに今説いて差し上げてもですね、結局私が我田引水的に言うておるようにしか聞こえないだろうから、まぁとにかく今日初めてお参りをされて、あなたのそのお願いをなさった、その問題そのもいのをおかげを頂くために、今日を境に只一つ本気で成り行きを大事にしてください。成り行きそのものが神様のお働きだ、と私は確信しております。
ですから今日を境に成り行きも変わって来るでしょう。ですからその成り行きを受けとめさせて、頂くためにそれがプラスになる、マイナスになる、という人間心を捨ててとにかく、それを一つ受ていく、生き方をなさったらいいですね、と言うてお取り次ぎさせて頂いたことでした。どうでしょう皆さん本当に合楽の真価を問われたら、みなさんどう答えられますか、そりゃおかげが著しいと言うことだけでは、真価にゃならないとおもうです。何というても私は合楽ではですね。
その教えの確かさ、またおかげのの確かさ、また本気でその事を行ずる気になれば、有り難う楽しう、本当にリズムに乗っての信心生活が出来るようになる、ま言うならば合楽の真価はそうでしょう。本当は金光教の真価と言いたいけれども、金光教はそういうわけにはいかんです。他では合楽で説かれるところの、なら合楽理念によることによってです。成程和道十全の教えだなと言う事が分るのですから。
ですからそう言うところに焦点を置いての信心であり、そういう信心を体得させて頂く、と言う事はです、焦点をそこに置いての曲がらず折れず、ね。信心をいよいよ手篤うしていくならばそれこそが真の信心であり真の信者と言う事になるのじゃないでしょうかね。只数で行こうという、只参りよるだけではいかんのです。合楽の真価を本当に悟り分からせてもらい、その真価に基いての信心生活が出来るようになり、いわゆる実験し実証させて頂いて、これを人に伝えていって。
成程和道十全の道である証拠に、いうならば十全のおかげが受けられる。お徳が受けられる、と言うそういう信心をめざすということ。今日はだからそういうね、私共の信心が一つの執念のような思いで信心を続ける人があります。けども如何に執念のようにその信心を貫こうとされても、貫いてみたところがです。いわゆる焦点がちごうておったと言うところに出たんではつまらんでしょう。この道を行けば絶対だと言うそこんところを確かめて、私は貫かなければいけない。
そういう信心を私は真の信心をしておるんだ。真の信者だということになるのじゃないでしょうかね。今日は大変意味がちがいますけれども、不同の扱いをすなと、教師に対するご理解に違いございません。けれどもならその取り次ぎをうける信者の側としてはです。それこそ先生から特別な扱いでもうけられる位な信者にお取り立て頂きたいですね。それこそ下にも置かんと言われるように先生から取り扱われるような、いっちょおかげを表わしたいですね。
先生としてはです例えばあれは要領ばっかり、と言う様な見方をせずにです。本当にその人一人一人の真価を、本気で認められる、いわゆる肉眼を置いて心眼をひらかせて頂ける程しの、先生にならせて頂かなければどうしても、不同の扱いと言う事になりましょう。人間ですからね。ですから先ず人間としてです、いうなら先生の前に言うならば、てすりおんぼすると言うか要領ようする。
と言う事はこれは、神様にてすりおんぼするのと同じことですから、おかげを受けるです。一生懸命の御用が出来たり、お供えが出来たりするなら、必ず先生が手篤う扱うようになるです。だから手篤う本当に扱かわれるような信者をめざしたい。先生は今申しますように、肉眼を置いて心眼を開かせて頂いて、それこそなべての信者信奉者をです、ただ神の氏子として取り扱われるような、おかげも頂かなければならんことを。今日の第九十四節は説いてあります。
けども最後の所の、信心の手篤いのが真の信者じゃとなら、あっちはねっしんだ、あちらは手篤いと言うても、焦点をふんまえずして、只一生懸命に参った拝んだと言う様な事だけの信者に止まらず、今合楽で言われるところの、和道十全の道を体得して、そしてそれを実際に頂いて現して、それを人に伝えていけれる程しの、内容を頂いた時に、私は真の信心を頂いておるんだ。真の信者じゃということが言えると思うですよね。
どうぞ。